▶宜野湾市ガイドブック(日本語版・Japanese)PDF
▶Ginowan City Guide book (英語版・English)P1~P3 PDF
▶Ginowan City Guide book (英語版・English)P4~P9 PDF
(1)位置
宜野湾市は沖縄本島の中部西海岸・東シナ海に面し、県庁所在地の那覇市から12.4キロ離れた地点にあります。市域の総面積は19.69キロ平方メートルで、北東6.1キロ、東西5.2キロのやや長方形をなしています。比率からすると、米軍基地が33.3%を占め、民間地の宅地が36.3%、田畑が8.5%、原野が2.1%、その他19.8%です。
最 東 端 | 東経 127° 47’ 21” |
最 西 端 | 東経 127° 43’ 46” |
最 南 端 | 北緯 26° 14’ 45” |
最 北 端 | 東経 26° 17’ 38” |
総 面 積 | 19.49平方キロメートル |
※面積は土地に関する概要調査報告書
(2)地形・地質
宜野湾市の地形は、ひな壇上の四つの段丘面からなり、海岸沿いの沖積低地のほか、内陸部の三つの段丘面は大半が石灰岩層で占められています。石灰岩部層の段丘縁には多くの洞穴と湧き水が散在します。東海岸にはクチャと称する島尻層群がみられます。
(3)歴史概観
■琉球王府時代の宜野湾
宜野湾市は琉球王府時代の1671年、浦添間切・中城間切・北谷間切の3間切(まぎり:現在でいう市町村)から13村(ムラ)を割き、新たに1村を設けた計14村で「宜野湾間切」として新設されました。この14村とは、我如古(がねこ)・宜野湾(ぎのわん)・神山(かみやま)・大山(おおやま)・大謝名(おおじゃな)・宇地泊(うちどまり)・喜友名(きゅうな)・新城(あらぐすく)・伊佐(いさ)・嘉数(かかず)・野嵩(のだけ)・普天間(ふてんま)・安仁屋(あにや)・真志喜(ましき)で、このうち、真志喜が新たに設置された“村”です。また宜野湾村には、番所(ばんじょ:現在でいう役所)が置かれていました。
宜野湾間切嘉数村から普天間村までの間には、尚貞王(1645~1709)の世子・尚純(1660~1706)が植え付けさせたと記録に残る宜野湾並松(ジノーンナンマチ)と呼ばれる松並木がありました。1644年からは、琉球国王が9月に普天間宮に参拝する普天間参詣が行われ、次第にこの時期にお参りする習慣が王府の官人や庶民にも普及していきました。1700年中頃からは、首里や那覇の士族層が生活の糧や職を求めて地方へ移り住むようになります。これを屋取(ヤードゥイ)と言い、徐々に集落を形成していきます。宜野湾間切では、1750~1780年代に上原や長田や愛知、中原などに士族層が移り住んできました。
■明治以降の宜野湾
1879(明治12)年、琉球王府が明治政府の琉球処分によって解体され、沖縄県になりました。明治政府下に置かれた沖縄県は本土化が行われ、これまでの制度や習慣、文化に影響を与えました。
1908(明治41)年の沖縄県及島嶼町村制の施行により、これまでの間切が町・村(そん)に、村(ムラ)は字(あざ)に改められ、宜野湾間切も宜野湾村となりました。その年の戸籍調査によると、宜野湾村の戸数は2,401戸、人口は11,184人で、農業を主体とした村でした。琉球王府時代に宜野湾に設置された番所も役場となり、宜野湾に中頭役所が置かれました。のちに普天間に中頭郡役所や県立農事試験場などの官公庁の施設が置かれるなど、宜野湾村は沖縄本島中部の中心地となりました。
1922(大正11)年には、那覇駅~嘉手納に、沖縄軽便鉄道が敷設されました。宜野湾村には大謝名駅・真志喜駅・大山駅の3駅が置かれ、とりわけ大山駅からは宜野湾村内で収穫されたさとうきびが嘉手納の製糖工場まで運ばれていきました。
また、1932(昭和7)年、宜野湾並松が国指定天然記念物に指定されました。この頃の宜野湾並松の行程は5.8km、松の株数2,944本であったと報告されています。
やがて人口や戸数も増加し、1939(昭和14)年には、旧集落から屋取集落が行政区として分かれ、志真志(しまし)・長田(ながた)・愛知(あいち)・赤道(あかみち)・中原(なかはら)・上原(うえはら)・真栄原(まえはら)が新たな“字”として設置されました。1943(昭和18)年には、真栄原から佐真下(さました)が分離して22行政区となりました。
■沖縄戦と宜野湾
1945(昭和20)年4月1日、米軍が沖縄本島に上陸し、宜野湾も戦禍を被りました。4月5日、宇地泊-嘉数-西原の棚原をラインに日米の攻防戦が展開し、4月24日に日本軍は浦添への撤退を余儀なくされ、その結果、4月下旬には、米軍は宜野湾村を攻略し、那覇市や南部方面に進攻しました。
激戦地の一つの嘉数高地(現:嘉数高台公園)には、戦時中に日本軍によって造られたトーチカ(大砲や機関銃などを置いた場所を分厚いコンクリートでおおった陣地)や陣地壕がいまなお、残されています。
同年6月には普天間飛行場建設が始まり、主に4つの集落(宜野湾・神山・新城・中原)は飛行場建設のために接収されました。また野嵩には上陸して間もなく米軍によって「野嵩収容所」が設置され、住民はもちろん、主に南部方面で「捕虜」となった住民もこの「野嵩収容所」に運ばれ、その多くが中北部の収容所へと移送されました。捕虜となった住民にとって、戦後がスタートしたのです。
この沖縄戦では、1944(昭和19)年10月の宜野湾村の人口13,636人に対し26.9%にあたる3,600余の犠牲者が出ました。
■戦後の宜野湾
米軍は、宜野湾村に普天間飛行場、キャンプズケラン、キャンプマーシー(真志喜にあった米軍施設で1976年に返還)、キャンプブーン(宇地泊にあった米軍施設で1974年に返還)の基地を建設しました。米軍基地の存在によって事故や事件が後を立たず、その取調べや裁判の判決も不当なものでした。
米軍は基地拡張を目的とした土地の強制接収を県内各地で行いました。1955(昭和30)年には宜野湾村伊佐浜でも土地の強制接収が行われ、そこで暮らす30戸余の住民が強制立ち退きを余儀なくされました。
1955(昭和30)年に18,469人を数えた人口も1960(昭和35)年3月には3万人を越え、1962(昭和37)年7月1日に市に昇格しました。「宜野湾市」の誕生です。
次いで1964(昭和39)年2月、戦後の混乱期の産物である対人的行政区の地域を明確にした20行政区に再編されました。
市制施行後も市域の市街地化は急激をきわめ、嘉数ハイツ・大謝名団地・上大謝名区の自治会が新設され、宜野湾市は都合23自治会20行政区によって編成されました。
さらに「那覇広域都市計画圏」において軍用地を除く市全域が市街化区域に指定され、あわせて西海岸の埋め立てに伴う沖縄コンベンションセンターや宜野湾海浜公園などの公共施設の整備により、宜野湾市は新しい市街地として発達しています。
(4)特産品 大山田芋
農家代々受け継がれてきた宜野湾市の「伝統野菜・特産品」で、子孫繁栄をもたらす縁起物として、正月・お盆などの伝統行事で食されています。
宜野湾市ホームページより参照